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釣具メーカー倒産の軌跡


釣具メーカー倒産の軌跡(1)

釣具メーカーというもが出来て、曲がりなりにも対外的に「釣具業界」というものが認められてから、今日に至るまで、幾つかのメーカーが倒産しています
しかもその大部分は、今日のような不況の時代ではなく、少なくも世間は好況の時代にです。その幾つかの例を挙げることで、
このトピでご心配している皆々様は、釣具メーカーの倒産が何も今始まったことではないと認識して、少しは心が安まるかも…。
その前に、近代釣具の「三種の神器」のことを述べておきたいと思います。
その「三種」とはグラスロッドとリールとクーラーのことですが、その三種のうち、最も早く破綻したのがクーラーのメーカーでした。
クーラーの始まりは、東作(注)の『スノー62型』で昭和31年に売り出していますが、当初のクーラーはまだステンレスという高級のものがないので、
ブリキを箱形にハンダ付けをし、それを板箱で囲い、その間にオガクズを埋めて作ったものでした。
その後クーラーはステンレスの一発加工、そして新しい断熱材の登場、次はプロテクターと称する外側をビニール織物等で包装して
釣場で腰掛けるようにするなど、クーラーというものが釣りにとって至極便利なもので、釣った魚の鮮度を保つという点から、
文字通り三種の神器にふさわしい商品となりました。
その東作が倒産したのは、昭和45年5月です。(注:江戸時代松本東作という釣り好きのご家人がいました。この時代釣竿といえば
「述べ竿」しかなく、松本東作は何とかして持ち運びに不便な「述べ竿」を、短く継ぐ方法はないかと考え、現在の継ぎ竿の原型を工夫した
約二百年前のことです。東作は本家と分家があり、本家はこの時倒産しましたが、分家の方は、店が新橋にある時は、
「新橋東作」数寄屋橋に移ってからは「銀座東作」として、現在も小売店を営んでいます。
「銀座東作」で検索するとホームページがあります。「和竿の素材入荷・和竿の作り方教えます」と僅かに、
二百年の歴史に接することが出来ます。三種の神器の一つ、クーラーのパイオニアとして爆発的な売り上げを記録した東作が何故挫折したのか。(つづく)                                                   


釣具メーカー倒産の軌跡(2)

「大丈夫なのか?」と「業界が危ない」の二本のトピは、異様なものです。これは、マミヤ・リョービそしてダイワの決算等と続き、
釣人に不安が広がったからでしょうか。さりとてそう毎日・毎回そのような投稿が続く筈もありませんし、あって欲しくもありません。
しかし、何となく気になる釣人がちょっと二つのトピを覗いてみます。そして何事もないことを確認して、
他のトピ目的のトピへと移って行くのではないでしょうか。その時ちょつと「寄り道」して読んでもらえたらと思い、
このトピの軒下を借りたつもりでしたが…。東作が破綻した理由は二つ考えられますがその一つは、グラスロッドに手を出したことでした
当時グラスロッドは特許の所有権を巡り係争中で(複雑なので省略します)オリムピックが東作クーラーの特許権に目をつけ、
東作にグラスロッドの製造権を与える交換条件として、クーラーの権利を手にします。そして、グラスロッド・リール・クーラーのセット販売を始めました
何しろクーラーは引っ張りだこの商品で、折からの東京オリンピックの開催に合わせ「若人のあこがれは東京オリンピック。
釣人のあこがれはオリムピック釣具」のキャツチフレーズのもと大々的にセット販売を始め、3年間でオリムピッククーラー百万個を販売したと豪語し、
需要と供給が砂地に水を注ぐように吸収され好調だったと当時の営業マンは語っていました。 
東作の倒産の原因の一つ「グラスロッドの生産に手を出した」ことは、この後「或る業者が釣具界に進出する」契機となったので、
これは後述するとして、もう一つの原因(これが最大の原因ですが)を先に述べます。
それは「芳野加工材」という会社がクーラーの大量生産を始めたことです。 
商品名を「バカンスクーラー」といい、当時バカンスクーラーがクーラーの代名詞になったくらいです。
生産が追いつかない状況下で、最盛期にはこの人気商品を仕入れるため、問屋筋が前金を積んで発注しなければなりませんでした。
しかし、過去に「フラフープ」だっこちゃん」の例があるように、如何にブームの波に乗ったとはいえ、
調子に乗りすぎた設備投資とそろそろ需要が頭打ちになったのが仇となったのでしょうか。昭和52年4月倒産しました。
先述したとおり、問屋筋が前渡金を出していたので、連鎖倒産が続き、業界最大の大型倒産で、
これまで順調に発展してきた釣具業界に大きな衝撃を与えました。三種の神器の一つバカンスクーラーが倒産した昭和52年ごろが、
釣具メーカーにとって一つの山だったかも知れません。当時の業界紙は「釣り離れか努力不足か、夏の輝きから秋風の季節へ」としています。
さて、東作のもう一つの倒産の原因となった「グラスロッドに手を染めた」ことですが、東作が倒産することによって、
東作の所有していた「グラスロッド製造の特許権」を手に入れ、新たに釣具業界に参入してきた会社がありました。「シマノ工業」です。                                  

釣具メーカー倒産の軌跡(3)

《前回「シマノ工業」と書きましたが、この時点では「島野工業」とすべきでした。以降「シマノ」とします》
さて、駅の駐輪場に何百という自転車が置いてある風景は珍しくありませんが、その自転車の車輪周りを見て下さい。
但し、変速ギアの付いている高級自転車に限ります。ほぼ100%の確率で「shimano」の刻印を発見する筈です。そうです。
「シマノ」は自転車の部品メーカーなのです。シマノはかねてから、自転車の変速ギア(歯車)を造る技術並びに鍛造器機類を
利用して「リール」の製造を試みており、昭和45年9月にリールの製造から始める意向を表明して、釣具業界に進出しました。
リールは自社工場で生産出来るとして、グラスロッドの特許権を持った東作の工場を手に入れ、更に東作クーラーのノウハウを加えることで、
一挙に釣具の総合メーカーとなっていきます。一社倒産する会社があれば、それによって、新たなメーカーが力を得てくるということです。
シマノはその後昭和49年5月グラスロッドのパイオニアNFTを傘下に収めることになります。
 このトビに最近「シマノ社長?」「企業展望」「自転車部門好業績?」「限りなく怪しい」「残念ながら志摩のクンは」と
シマノについての投稿が連続していますが、何れも鋭い観察・情報で感心します。シマノのことを、今この「倒産の軌跡」で
取り上げる対象ではありませんが、最近続いているシマノの話題が投稿されていることで、ちょつと寄り道させて頂きます。
情報はあったにしろ、今年の東京見本市会場でリョービを見て「あのリョービが」と仰天した釣人は多かったと思います。
しかし、リョービが釣具業界に参入した経緯を振り返って見ると、「菱備」は釣具メーカーではなかったのです。
昨年の「マミヤ」の場合も同様です。釣具メーカーではありません。その意味からするとシマノも釣具メーカーではありません。
そもそもこれらの企業は好況の釣具産業に参入することで企業の飛躍を図ったのではないでしょうか。所謂企業戦略です。
それだけに逆の目が出た時は、その部門のリストラを図るのは当然です。シマノは「付加価値の追求と健全経営」で知られる優良企業ですが、
それだけに「釣具部門」が負担になったとき、撤退するのに何の逡巡も感じない体質を持つ企業のような気がしてなりません。


釣具メーカー倒産の奇跡(4)

昭和52年4月のバカンスクーラーの倒産は、業界最大の大型倒産と書きましたが、これは前渡金を渡した問屋筋が
連鎖倒産を引き起こしたことから、被害が大きくなり「業界最大の大型倒産」と言われたのですが、実はそれより以前、
昭和47年3月にワールド産業というグラスロッドメーカーが倒産しています。負債額25億7千万円です。
この額は現在に換算するとどの位になるか分かりませんが、現在でも巨額の負債金額です。ところで、このワールド産業とは
如何なる会社であったかと言うと、千葉県館山市で六角竿の素材を造っていた「館山釣竿」がその前身です。
この工場で生産される六角竿はそれほど優れた品質ではありませんでしたが、量産ということでは屈指の六角竿素材メーカーでしたので
多くの六角竿加工業者が取引しています。《(現在六角竿を造っている工場又は職人更にかって六角竿の生産に関与した会社等が
存在しているかどうか不明ですが朝鮮戦争の特需を挟んでグラスロッドの生産が始まるまでの、六角竿の果たした役割については
今ここでは触れませんが、空前の六角竿ブームが(主として米軍関係及び輸出、国内向けではない)業界発展の原動力になったことだけは申し上げておきます》
館山釣竿がワールド産業として、グラスロッドのメーカーに変身したのはいつかはっきり記憶していませんが、
館山の海岸近くに体育館のような工場を建てて操業を始めたのは、昭和40年前半と記憶します。
たしか海軍の航空基地跡と聞いた気がしますが、館山の方ならご記憶があるかも知れません。
この間のワールドの景気はたいしたもので、一時期オリ釣・NFT・竿常・などグラスロッドの先発メーカーの生産量を上回り、
見本市会場の出品も目立ち、社長以下社員達が肩で風を切って会場を闊歩していたのを今でも記憶しています。
そのワールドが突然の倒産でした。 その原因は放漫経営ということになっていますが……。  
   

釣具メーカー倒産の奇跡(5)

ワールドが倒産した原因は「放漫経営ということになっていますが……」と「……」の続きを書こうと思っていましたら、
sinnjitunohitoさんに先手を打たれてしまいましたね。私も正確なことは分かりませんが、噂は聞いていました。
なお、内容は不明ですが、昭和45年7月に丸紅飯田とワールドが業務提携しています。何か関係があったのでしょうか。
ところでD社のことは今更驚きませんが、ayuten 1さんの情報「志摩の君」の話は初耳でした。「釣関連企業が危ない」の最近トピを
読んで私も参戦したいのですが、その気を押さえ、これを続けます。ロッドの後はリールです。
だんだん現在に近づきますのでお付き合い下さい。
 さて、本題に戻りますが、昭和48年グラスロッドの特許権がグラスロッド工業会に移管のあと、
昭和49年10月「グラスロッド特許権係争が最高裁上告を棄却、13年間にわたる抗争が終結」しています。
(このことは煩雑なので説明は省略しますが、この後に起こるグラスロッドメーカーの壮絶な生き残り戦争の原点になるので特記しました
ワールドの破綻は実はこの影響の第一号の犠牲とも云えかも知れません)
ところで、当時グラスロッドを生産していたメーカーは何社ぐらいあったのでしょうか。「オリ釣」「NFT(日本フイッシングタックル)」
「エビス(竿常)」「ダイワ」「シマノ」「リョービ」「日新」等の他、素材メーカーが5〜6社あり、その中には特定の問屋たては
大型小売店の自社ブランドの製品を作っていた会社もありました。また大日本硝子がアメリカシェクスピア社のワンダーロッドという
縦繊維だけで作る特許製法の素材を数社に提供したり、竹の節を付けたようなロッドを作るメーカーが出現したり、
加えて韓国から輸入が増大して、時正に百花繚乱のグラスロッドメーカーの乱立時代を迎えことになります。 
 なお、この頃の素材は、フエノール樹脂製で、一部ポリエステル。エポキシを経てカーボンになりますが、
初期のカーボンは「味の素カーボン」等と言われ、カーボンの混入率が問題になった時代もありました。
極端なことを言えば竿が黒ければ「カーボン」という訳です。カーボンロッドのパテント問題で昭和53年からもめ事が起こり、
一応決着をみたのは昭和54年11月でした。なお、釣針メーカーの「がまかつ」がカーボンロッドをひっさげて、
一社だけの釣展を開催してロッドメーカーに参入したのは昭和53年4月のことでした。


「がまかつ」について

togo kさん。daiwa0859さんから「がまかつ」について投稿がありましたので、「がまかつ」について、お知らせします。
先ず「がまかつ」という妙な社名ですが、これは社長の藤井繁克の「克→かつ」と、
創立当時の会社の所在地兵庫県西脇市蒲江の(蒲江の蒲→がま)を併せたと聞いています。
昭和30年代後半から40年にかけて、グラスロッドやリールの普及宣伝に、デパートの釣具売場をはじめ、各地の釣具店に向けて
営業活動を活発に行っていた頃、一人の若い男が大きなカバンを肩にかけてセールスしていました。「蒲克鉤本舗」の社長です。
前の月に納品した分の集金をして、商品を補充、そして新製品の試供品を置いてもらったりする、富山の薬売りスタイルです。
こうして藤井社長は多くの釣具店と直接コミニケーションをとると共にその土地土地の特徴、シーズン毎の売れ筋の釣針のノウハウを蓄積していったようです
当時釣針製造業者が直接販売に営業活動することはなく、まして社長が直接セールスして歩き回ることなどは論外のことでした。
世間はこの「釣針屋」は「金のない貧乏な会社」と噂していました。何故かと言うと、釣針製造業者はみな豊富な資金があり、
本当かどうか知りませんが、みな「山持ち」といわれ、集金は「盆・暮れ」の年二回が商習慣とされていました。
問屋筋からの注文に、極端な表現を借りれば、工場から「スコップですくって」納品していました。
従って藤井社長がユーザーの直接の声により得ていたノウハウなど知る由もなく、これが後年大きな差となって現れ、
業界一「資金の無い、貧乏な会社、だから毎月集金に歩いている」と噂された会社が、ある商品開発により一転して現在の業績を残す会社に成長します 
続きは「釣針にハリスがついた」です。


「がまかつ」について(2)

「釣行」の第一段階は、仕掛けを作ることですが、その前に「釣針にハリスを結ぶ」ことでした。この「でした」が
「ハリスの結んである釣針」を買う、「仕掛けのセット」を買ってくる。に変わってくるのはいつ頃からなのか。
昭和40年に近い昭和30年後半のような記憶があるのですが、正確な記録がなくご勘弁下さい。
私自身それを購入したのは、はぜ釣りのシーズンで、今まで見たことのないパッケージに入った袖の6〜8号の釣針でした。
その商品は一本の釣針を掴んで引っ張り出すと何とハリスがちゃんと結んでありました。これは便利。
不器用者からハリスを結ぶという作業を開放してくれました。この実用新案パッケージはあっという間に全国に普及します。
この市場占有率100%のハリス付き釣針の発売元こそ「がまかつ」でした。
若い人には信じられないかもしれませんが、サビキ仕掛けにコンドームを短冊に切って使っていた時代。
釣り具店が「釣道具店」といっていた時代、10本単位で釣針を買ってきて、せっせとハリスを結び、仕掛けを作る。
これはフナ釣りに出かける少年も同じ作業が必要でした。特に複数の針を付ける仕掛けの場合は苦労が倍加されました。
(この時間が楽しいのだと言う釣人もいましたが)今から考えると当然といえば当然、当たり前といえば当たり前ですが、注文先の注文に応じて
工場から出荷だけしていた他の「釣針製造業者」からは、この発想は絶対起きなかったでしょう。ここが「がまかつ」との違いでした。
ところで現在、自分でハリスを「結ぶ」「結べる」人の割合はどうなっているのでしょうか。
話は違いますが、NHKテレビに「プロジョクトX」という番組があります。6月19日は「広辞苑」の辞書作りに取り組んだ言語学者の新村出・猛親子でした
もし釣具界から誰かと言われたら、私はオリムピック釣具(植野精工)の創設者植野善雄氏を第一とします。
戦前から職人技術としてリールのメカニズムに挑戦し、戦後は六角竿・グラスロット・リールの開発に貢献し、近代釣具の開拓者でした。
そしてもう一人は、つり針にハリスを結び、実用新案のパッケージを考案して、釣針の販売を画期的に拡大させた、藤井繁克氏だと思います。
更にもう一人と言えば、ダイワ精工の初代松井社長でしょう。ダイワは近年とかく話題になっていますが、
その経営手腕については規模や視野の小さい釣具業界にあって異例のことで、ニッサン・トヨタ・キャノン・ソニー等々と並び
釣具は「ダイワ」と世界に名を知らしめたのは立派な経営者と見るべきではないでしょうか。


釣具メーカー倒産の軌跡(6)

「投竿のオリ釣」「磯竿のNFT」「ヘラ竿・小継竿のエビス」とそれぞれの特徴で一時代を築いた、グラスロッドのご三家が何れも破綻しています。
先ずNFTから。
●NFT(日本フイッシングタックル)
釣具界に限らず、現在伝えられてる各企業の破綻・倒産の原因の多くは、過剰な設備投資や本業以外の投資・投機と相場が
決まっていますが、NFTの場合は例外のようです。NFTはオリ釣と共にグラスロッドを最も早く生産・販売し、折からの釣りブームにのって
造っても造っても生産が間に合わないという時代を迎えたわけですが、このような場合、経営者というものは増産するため「設備投資をする・
そのために必要なら銀行の融資を受ける・さらに業績を拡大するため、例えばアパレル部門等を加え総合釣具メーカーへの道を目指す」
のが普通ではないでしょうか。オリ釣もダイワもそうでしたし、その後のリョービもシマノも同様です。
この後書くことになるエビスもABUと提携しています。この点NFTは何もせず、ひたすらグラスロッド一筋の専門メーカーに終始します。
世田谷三軒茶屋近くの兵舎跡の工場で六角竿を造ることから始まり、その後六角竿の設備を取り壊してグラスロッド工場にしますが、
その後設備の老朽化もあり多摩川に新工場を設立したのが、空前の釣りブームに対応した唯一のものでした。
それではNFTは何故かくも小心に小企業の殻に閉じこもって発展しようといなかったのか。
それはこの会社の創立者(社長を退き会長)の経営方針だったのでしょうか。この会社の創立者は、N氏という資産家です。
渋谷南平台の壮大な屋敷内には蔵があって、多数の「重文」を含む書画骨董が収められており、「重文」を多く所有する個人蒐集家としては、
その道では著名な方だそうです。また、水郷横利根の船宿に「へら釣の釣船」を預け、伊豆河津に別荘を持って河津川のアユ釣りと、
伊豆方面の磯釣りの足場にしているという、資産家であると共に粋人でもあったわけです。
この釣り好きの粋人が釣具界に関わることになった契機と、設備投資もせずに貯めた利益金を何に使ったのかは、次回へ。


釣具メーカー倒産の軌跡(7)

昭和16年3月20日から30日まで、日本橋白木屋デパートで「釣の展覧会」が開催されています。戦前における日本の釣りと釣具の業界にとって、
最後の絢爛たるフィナーレーとなった展覧会です。この出品目録の中に「六角竿」二本があります。
出品者はオリ釣の創立者植野善雄氏らしいのですが、実際に試作したのは誰か、どんな六角竿だったのかは不明です。
しかし、戦前において六角竿を既に試作していたのは事実です。戦後の混乱の中、どういう経過でそうなったのか、勉強不足ですが、
当時六角竿の本家は多田製作所(多田一松氏)と言われ、この人が日本交通公社観光用品洋式釣竿工場と称する分限で、
六角竿を製作していましたが、この権利をN氏が買い取り、世田谷の兵舎跡で六角竿の生産を始めます。昭和24年6月のことです。
これがNFTの創立ということであり、資産家で釣り好きの粋人といわれたN氏が釣具業界に関わりをもつようになった経過です。
なお、オリ釣は1年前。戦争中焼け残った喜楽釣竿は2年前から生産に入っています。
この三者が進駐軍相手のお土産用の六角竿の生産設備を揃え出揃ったところで、朝鮮戦争(昭和25年6月)が勃発。
米国在日中央購買局(C・P・O)発注の特需が入ります。この恩恵を受けたNFTは、この時の利益の蓄積によりいち早くグラスロッドの生産を始めます
この後、NFTの好況は何年くらい続いたのでしょうか。(NFTだけではありませんが…)この間を振り返って、或る営業マンは、
戦時時の統制品の配給係のようなもので、営業の仕事とは、出来上がった製品をどの特約店(問屋)に配給するかを決めて、
納品書を書くだけが仕事で、倉庫はいつも空、修理用のパーツさえ確保するのが困難だったと、絶好調だった時代を回顧しています。
この好業績を上げていたグラスロッドのパイオニアが、突然シマノの傘下に入ったとの報が伝えられたのは昭和49年5月でした。(続く)
ご配慮・ご支援感謝します。今回は小生が直接関与・見聞したものでない部分が多くあります。「植野善雄伝・松本国雄著を参考にさせて頂
きました)


釣具メーカー倒産の軌跡(8)

NFT会長(創立者N氏社長を退き会長)の持論は、「儲けは社員で分けなさい」だった。
この方針のお陰でグラスロッド好況下の十数年間NFTの社員は、6〜8ケ月のボーナスを年に2回支給されたと聞いています。
加えて株の配当金もありました。但し株の配当金の方は同族会社ですからその関係と役員などに恩恵を受ける者は限定されていました
会社の利益をこのように従業員に分配することは会長の哲学だったらしいのですが、惜しむらくはこの会社に会長を補佐する人物の欠けたことでした。
他のメーカーが折からの経済成長と空前の釣ブームの波に乗って事業を拡大発展させて時、さしたる設備投資をせず、
利益を社員に分配して、時を過ごしてうちに、軌跡(5)で述べたような百花繚乱のグラスロッドメーカーの乱立の時代を迎え、
永我が世の春を謳歌していたNFTにもピンチが訪れ、倉庫に製品の滞貨が出始めることになります。
この頃のNFTの社内には同族会社特有の何か複雑な事情があったらしく、会長がこの事情に嫌気がさして会社継続の意志を
失ったのが最大の破綻の原因と聞いていますが、資金的な実状などは窺うことはできません。(続く)


釣具メーカー倒産の軌跡(9)

ただ社内的な統一意見として「破産」を避けるということで、リョービとシマノの両社に打診することになります。(リョービが本格的に釣具に進出するのは翌年)
結果として「NFTの社名・ブランドはそのまま残す」「従業員の身分保障」等々の条件で、シマノの傘下に入ることになったのですが、
この時当面投入した資金が1億に満たない額であると伝えられると、この突然のNFTの身売りに大阪の特約店や下請けから、
前もって相談してくれればと、余りの簡単な身の振り方に戸惑いがみられ、シマノは安い買物をしたと噂が流れました。
しかし、NFTの社名やブランドがこの後残っていたのは、どの位の期間だったのでしょうか。いつの間にかNFTは完全にシマノに吸収合併され、
今はグラスロッドのパイオニアNFTの名は消滅しています。


     釣具メーカー倒産の軌跡(10)

「オリ釣」「NFT」に次ぐ第三のグラスメーカー「竿常」(後エビス)と前二社との違いは、次の二点だと思います。
(1)二社は六角竿からグラスロッドに移行したのに対し、竿常の前身は和竿(竹竿)の製造者であること。
(2)二社はグラスロッドの本格的国内販売の前に輸出(アメリカ)の経験があることです。
特に(1)による二社との差は、その製品に現れてきます。
当時このグラスロッド三社は、「投釣のオリ釣」「磯竿のNFT」と言われたのに対し、エビス(以後エビスとします)は
「ヘラ竿・小継竿のエビス」と称されていました。ヘラ竿や小継竿の微妙な調子は、グラスロッドの素材製造の技術とは別の感性を要求され
これが前二社を上廻っていたものと思われます。エビス全盛期には名品(調子・デザイン共)と言われる小継竿シリーズが各社の
製品を凌駕していた時期がありました。そのエビスが事業拡大に色気を出したのがABUとの提携です。
昭和45年5月(1970年)のことです。


釣具メーカー倒産の軌跡(11)

エビスはNFTと同じくグラスロッドのみのメーカーですから、オリ釣やダイワのような総合メーカーを目指す足かがりとして、先ずABUと提携したものと思います
この提携がエビス破綻の直接の原因とは思えませんが、(ABUは後オリ釣に引き継がれる)ダイワが販売元となっていた
ペンリールほどの人気がなく、(ペンは後ペンリールジャパンとして直販)期待していた業績が得られなかったのは事実のようです。
エビスは前出のNFTとは対照的に事業拡大に野心的でした。即ち、昭和427月(1967年)草加工場完成。
昭和50年6月(1975年)宮城工場完成と上昇しますが、3年後の昭和53年7月(1978年)倒産します。
これでグラスロッドご三家のうち二社が消え去り、残るはオリ釣のみとなってしまいました。
但し、オリ釣の後身「マミヤ・オーピー」として完全に消滅したのは昨年12月22日の釣具部門撤退発表です
が、オリ釣として事実上の破綻は昭和54年(1979年)と思っています。


釣具メーカー倒産の軌跡(12)

オリ釣倒産に至る軌跡を述べることは、戦後荒廃の中からいち早く立ち直り、釣りブームを演じた主役の軌跡を述べことになり、
とてもこのトピで数回に分けて投稿しても足りるものではありませんので、幾つかのエピソードなどを紹介することで、
グラスロッドご三家の最後の倒産の軌跡とさせて頂きます。

昭和50年代(1975年〜)の釣具業界は釣りブームに乗って、発展を続けているように見える反面、グラスロッドメーカーの
乱立に加え韓国製品の大量流入により、製品がだぶつき始めた時期でもありました。オリ釣も経営が悪化しはじめ、
その解決策として三菱商事の援助を仰ぐことになります。即ち、生産した製品を一度全部三菱が全部買い取った形にして、
それをオリムピック釣具販売会社が買り販売するというものです。何故三菱かについては、推測の域はでませんが、
グラスロッドの原材料である硝子繊維のメーカー旭フアィバーグラス、その親会社の旭硝子そしてその系列の三菱という図式だと思い
ます。
仮にこの時点でオリ釣に破綻が生ずると、この図式が大きな被害を被ることからテコ入れがあったものと思います。
しかし、三菱のような大会社は、ある時点で損害覚悟でこれ以上の介入を止めるという判断を下してしまいます。
これによってオリ釣の新体制が整ったのが昭和54年10月(1979年)のことです。この後どのような調整があったか分かりませんが、
昭和57年5月(1982年)オリ釣はコンピューターのシステムソフト開発企業のコスモ・エイティ社と資本提携することになります。


釣具メーカー倒産の軌跡(13)

昭和57年5月(1982年)コスモとの提携について、次のように発表しています。
(1)釣具事業の一層の強化発展。(2)情報電子機器の開発製造(3)ゴルフシャフト・電動工具・コンピューターソフトウェアを
生かした画期的新製品の開発を三本柱に開業を図るとしておりますが、私はこの時点で戦前から国産リールの数々を製作し、
戦後は六角竿・グラスロッド・スピニングリールの製造と、我が国の釣具の発展に寄与し、常にトップメーカーであった植野精工こと
オリムピック釣具は消滅したと思っています。そして、以降この会社とその製品について、全く興味を失っています。
ましてやその10年後の平成4年6月(1972年)に発表されたマミヤ光機との合併に至っては、もはや釣具メーカーの出来事とは
思えなくなっていました。その時の発表によれば、10月1日を以て合併し、翌年4月1日より新社名を「マミヤ・オーピー(株)」として発足するとしています
そして、昨年12月22日のマミヤの釣具事業部撤退発表となるわけですが、マミヤ以前のコスモとの提携の時点で、
オリ釣の終焉と割り切っていた私は何の感慨もわかない巨像の退場でした。
このトピ主の「大丈夫なのか?日本の大手釣具メーカー」において「マミヤも撤退か」と報じており、1月25日degby4さんが
「マミヤも釣具撤退」。1月26日bumpingshoutさんが「オリム精算」をいち早く取り上げ報じています。
『(12)の「オリムピック釣具販売会社が買い販売」は「買い戻し販売」』と訂正させて下さい。


釣具メーカー倒産の軌跡(14)

上州からチョビひげの豆腐屋の小父さんが釣具店開業を目指して上京。北千住駅前に小さな店を開いたのが昭和38年4月(1963年)のことです。
この時期よりやや早く、青山で牛乳配達業を手広く営んでいた磯釣の好きな事業家が釣具販売に乗り出し、
サカイスポーツを創設しました。両者ともレジャーとしての釣りブームの到来を予見しての優れた商才の持ち主だったのでしょう。
サカイスポーツが倒産したのは、昭和54年4月(1979年)のことです。
サカイスポーツはメーカーではありませんが、その倒産の軌跡をたどることは、当時の釣具業界の実状と流通事情を知る上で参考になるかも知れません
サカイスポーツの酒井社長は西武グループと何か特別のコネクションがあったのでしょうか。
西武デパートをはじめ関東地区の西友ストア各店に釣具売場を出店して急速に業務を拡大していきます。


釣具メーカー倒産の軌跡(15)

サカイスポーツが全盛の頃は、30店舗程展開していたのではないでしょうか。
本社ビルは原宿から竹下通りを抜けて神宮外苑方面に向かった処にあり、スタッフも百人近くいたように記憶します。
サカイスポーツという社名からして、この会社は問屋ではなく、と云って単なる小売店でもなく、多店舗を統括して流通させる新しい形態の組織でした
上州屋が江戸川区平井駅前に2号店を開いたのが創業から12年後の昭和50年7月(1975年)で、
それ以降急速に多店舗展開をしていくことを思えば、このサカイスポーツの新しい流通システムは斬新だったと云えます。
しかし、サカイスポーツの誤算は、この後釣具市場を吹き荒れる乱売を予想出来ないことでした。
サカイスポーツが展開した主な店舗西友ストアは、上代から何%か引かれる所謂デパートシステムが、
安売り店との競合に対抗できない条件となって立ちふさがることになるのです。


釣具メーカー倒産の軌跡(16)

日本橋三越と云えば最も格式の高いデパートですが、その三越の一階の好位置に売場を占めて永年営業していた釣具売場がありました
それなりの実績を挙げていたからこの売場をキ−プできたのでしょう。しかし、デパートの包装紙で買ってくれるお客さんにも限界が訪れます。
又或るデパートの釣具売場は5階のゴルフ用品売場と営業成績を競っていましたが、その釣具売場が急に7階の園芸用品売場の隣りに移されてしまいます
デパート釣具売場の終焉は折から猖獗を極めた廉売・安売りに競合出来なくなった結果でした。
サカイスポーツの出店した西友ストアチェーンも例外ではありません。
先ず業績の挙がらない店から逐次閉店に追い込まれ、遂に約15年に亘って一時代を築いた多店舗流通の先がけとなったサカイスポーツが倒れました。
負債額約6億と伝えられています。その頃上州屋はまだ12〜13店舗の時代ですが、既に多店舗展開に急速に発展中ですし、
ポイントとキャスティングも既に確固たる地盤を固めている時代でした。従ってサカイスポーツも時流に乗れない筈はなかったのですが、
デパート系に店を展開したのが誤算となりました。


釣具メーカー倒産の軌跡(17)

昭和40年代後半から昭和50年中頃(1970年〜1980年)にかけての釣具業界は「荒れ狂う乱廉売とメーカーの相次ぐ倒産」の時代でした。
この時代と現在の「大丈夫なのか?日本の大手釣具メーカー」「今、釣り環境と釣関連業界が危ない」のトピに投稿されている
事例とは似ているように思われますが、徹底的に違うのは、現在は日本中が不況の中にあっての釣具業界であるのに対し、
当時は好況下にあり、釣りブームに対応してメーカーの乱立と生産過剰、その結果として乱廉売。そして倒産ということではないでしょうか
釣ブームの現象として当時のルアー関連の出来事を列記すると、次ぎのようなことがありました。
●東洋レーヨンが、水産淡水区水産試験所に放流委嘱していた、新しい釣魚ブルーギルの試し釣を伊東の一碧湖で開催(1970年)
●奥多摩専用釣場に初のスピナー釣場を開場(1970年)●ブラックバスの稚魚5千尾日本に輸入(1972年)
●日本ルアーフィッシング協会がルアーフィッシングの講演を精力的に行う(1971年)
●ルアー・フライ講演と映画の集い盛況(1980)


釣具メーカー倒産の軌跡(18)

魚信さんが「万引き」のことを書いておられましたが、昭和55年(1980年)11月24日付の読売新聞の社会面は大きな見出しで、
「ブームに釣られた ちびっ子の万引き横行」を報じ、「小・中学生の間で最近、ものすごい釣りブーム。
過熱気味ともいえるブーム浸透の中で、首都圏の釣具店やデパートでは、このところ子供たちによる釣り道具の万引きがひんぴんと起き
業者や学校関係者は頭を痛めている」として、「三平は盗まないよ」とわざわざ漫画家の矢口高雄さんの、子供達を諫めるるコメントまで掲載しています
当時の過熱的な子供達の釣ブームの仕掛け人は、その「釣りキチ三平」と、NHKのつり番組でした。
渋谷のSルアーショツプでは正月休みが明けて店を開けると、開店前からお年玉を握りしめた子供達が並んでいるのを見て、
びっくりする。今ではモケモンカードとかゲームソフトにはお年玉を使うがルアーを買う子はいなくなっているようです。
但し、当時子供達が購入したルアーは実際の釣りより、コレクションのような気がしているのですが実際にはどうだったのでしょうか。


釣具メーカー倒産の軌跡(19)

昭和35年(1960年)〜昭和40年(1965年)頃のスポーツ新聞の釣り特集を見ると協賛釣具メーカーの広告が出ていますが
、当時まだメーカーとして新聞広告の出来る会社は、「オリ釣」「NFT」ともう一社「日工産業」の三社のみです。
三種の神器の「クーラー」「グラスロッド」に次いで最後の「リール」のプロローグとして、この日工産業のことから始めたいと思います。
日工産業は、山口自転車の下請け工場でしたが、その会社がどのような経緯で、リール製造に携わることになったかは不明ですが、
日工産業が製造していたリールはスピン・キャスティングリール(クローズド・フェースリール)に限定されたものでした。
機種もそれ程多く無かったと思います。この会社の製品が市場からいつの間にか見えなくなります。
会社が倒産したのかリール製造から撤退して自転車の部品製造の本業に戻ったのか。
しかし、何れにしろ近代釣具の黎明期の三社の中の一社の早すぎる退場でした。

釣具メーカー倒産の軌跡(20)

スピン・キャスティングリール(以後SCリール)は、そもそもは淡水用のルアーフィッシング対応のリールですが、当時ルアー釣りは未開拓の時代でした。
従って日工産業はSCリールを「海釣りの中・小物釣り用に最適です」とする以外宣伝販売の手段はありませんでした。
SCリールは他のリールに比較すると(未だリールの扱いに不慣れの釣人の多い時代)操作が簡単で、特に海釣りの場合
底釣りに適していましたので、当初はそれなりに人気があったのですが、このリールの販売拡張を拒む幾つかの欠点がありました。
その一つは、海釣りに使用した後はよく水洗いの手入れが必要なことです。覆面でスプールが覆われているわけですから、
そのまま放置しておくと次回使用の際、塩の結晶のようなものが付着していたり、錆が発生したりでトラブル発生の原因となり
人気が低下していきました。もう一つはSCリールにはこのリール専用のハンドル(グリップ)の付いたロッドが必要だったのですが、
グラスロッドを造っていない日工産業としては、自社のリールを売るために「オリ釣」や「NFT」に頼らざるを得ませんでした。


釣具メーカー倒産の軌跡(21)

自社のリールを販売するのにロッドメーカーの製品に頼らざるを得ない日工産業でしたが、「オリ釣」「NFT」「エビス」とも
製品カタログに未だ「ルアーロッド」は掲載されていませんでした。但し、輸出向としてはスピニング・フライと共に主力アイテムでしたが、
国内向には僅かに出荷している程度で、しかもそれらは船釣・ボート釣用として販売しており、フライロッドは国内向けには全く販売していませんでした
従って日工産業は普通の船竿にSCリールの使用を宣伝販売したわけですが、販路拡張には限度がありました。
更に徹底的なことは、スピニングリールを右手で捲くという日本独特のリール使用方法が障害となりました。
(5月10日業界裏話9−4スピニングリール参照) 即ちSCリールは構造上左手捲に限定されることから、どうしても馴染めなかったようです。
このことは現在に至っても影響がありアメリカ・カナダなどのバス釣に使用されている比率に対し、我が国の普及の低さに繋がっているのではないでしょうか
以上のような条件が重なり日工産業は釣りブームの恩恵を享受することなく撤退したのでした。


釣具メーカー倒産の軌跡(22)

我々ユーザーには総合メーカーの製品として受けとめているリールでも、実際には協力工場で造られているものがあります。
50〜100名名未満の中・小企業のリール製造業者が実際にどの位あったのか、あるのか実態は判然としませんが、
それぞれの工場は優れた技術と特許権を所有して、頑張っています。グラスロッドの場合は機械的テクノロジー以前にケミカルの段階を
経過しなければならない厄介なことがありますが、リールの場合は日本人の几帳面な性格と研究心に加え手先の器用さが相俟って
優秀なリール、特にスピニングリールは世界を席巻することになります。
その中で幾つかのリールメーカーを紹介すると、先ず稲村製作所があります。この会社は創業時国内向にはオリ釣に製品を
納めていたようですが、昭和37年(1962年)のリール工業界の資料によれば、オリ釣に次ぐ工業所有権を有するメーカーです。
昭和45年(1970年)このメーカーがダイワと業務提携してダイワリールの市場占有率に影響を与えました。
この他、五十鈴工業・佐藤工業・大森製作所・日吉産業等々のリールメーカーがあったのですが、これらのメーカーが
ユーザーに知られていないのは、総合メーカーのブランドによって国内市場に流通していたからです。
しかし、この中から自社の製品は自社ブランドでと敢然と立ち向かったメーカーがありました。


釣具メーカー倒産の軌跡(23)

リールメーカーが自社ブランドで国内市場に参入するには、幾つかのハードルをクリアーしなければなりません。
その一つは或る程度の機種を揃える必要があることと、大事なことはアフターサービスです。
大森製作所はこの難問を解決して、スピニングリールの単発メーカーとして、初めて国内市場に進出します。ダイアモンドリールです。
同社のリールは他社のマスプロ化したリールに対抗した、高品質・高性能のリールとして、一部釣人に高い評価を受けますが。
所詮総合メーカーとの競合に対抗できず、昭和45年(1970年)シェクスピア社との間に技術と販売面で完全提携して、国内販売から撤退しました
ところが、昨年東京の見本市に突如登場しました。その製品は中国で製造されているそうですが、オールドファンは有り難いもので、
このコーナーに昔の愛用者が多く立ち寄り、ダイアモンドリールの復活を祝っていました。
しかし、その期待に反し今年の見本市には出品がありませんでした。その理由は不明ですが、アフターサービスを含む流通体制の準備不足かも知れません


釣具メーカー倒産の軌跡(24)

一番多く流通している(量産している)リールの機種は、小型スピニングリールではないでしょうか。
特にセット用等に用いられている低価格・普及型の小型スピニングリールは国内向は勿論輸出向に最も需要の多いタイプのリールです。
しかし、それだけに価格競合の激しい商品でもあるわけです。この価格競合を打破するため、生産拠点を海外に移したリールメーカーがあります。
日吉産業です。韓国馬山加工区への進出です。この馬山の工場建設は充分な受注を見込んでのことでしょうが、釣具業界初の
生産工場海外進出の先鞭は小型スピニングリール専門の日吉産業でした。爾来韓国製のパックロッドのセット物や国産各社の普及品の
ルアーセット、船釣セット等に使われている小型スピニングリールの殆どは日吉製といってもいいのではないでしょうか。
但し、我々ユーザーにはその製品は「オリ釣」「ダイワ」「リョービ」や「大型店」等のブランドでそのリールを見ているので、
「日吉」の社名は知られていませが、リールの脚部の裏側を見ると原産地の刻印を発見するはずです


釣具メーカー倒産の軌跡(25)

近代釣具の黎明期、三種の神器と云われたクーラー、グラスロッド、そして最後にリールに至りました。
但し、リールについては「倒産の軌跡」と言うテーマーに必ずしもそぐわない記述もありますが、リールメーカーの場合は、
総合メーカーのブランドの陰に隠れており、実態が分からないことが理由でもあります。
最後に特殊なリールのことに触れますと(倒産の軌跡ではありません)電動リールがあります。初めて製造したのはミヤマエ工業ですが、
「電気で魚を釣るとは気違いだの、ものぐさだのと悪評でした」と宮前社長自身が回顧しています。確かに見た目にも大型のリールで、
しかもバッテリー付きでという異常なリールの出現に当初はゲテモノ扱いの感がありましたが、その後の普及は今更述べる必要はないと思います。
以上で大雑把ですが、古代史は終了ということにさせて頂き、最後は現代史のリョービを以て、このシリーズの投稿を終えたいと思います
それにしても、今「大丈夫なのか?日本の大手釣具メーカー」の投稿が静穏なのはご同慶の至りと云うべきではないでしょうか。

釣具メーカー倒産の軌跡(26)

リョービが上州屋に釣具事業の営業譲渡を発表したのは、平成12年8月29日のことです。
この日、両社社長名で営業譲渡の契約書の締結を関係機関に発表したのですが、その現実を目の当たりにしたのは、今年の東京釣具見本市でした
近年これほど驚いたことはなく、上州屋の小間の前でしばし感慨無量で、両社の関係を現す表示を見つめて立ちつくしてしまいました。
そこで、リョービの軌跡を辿ってみることにします。
菱備(当時社名は漢字)という自動車の部品を造っている会社がスピニングリールを売り出すと発表したのは昭和45年(1970年)です
その会社は販売ルートも国内販売のノウハウもないことから、オリムピツク釣具と提携「オリムピック・菱備リール」として、
取り敢えず広島県・山口県・北九州・大阪の4ケ所の問屋を発売拠点に限定してテスト販売を始めます。
その後独自の国内販売ルートを確立し、新機種のリールを続々発表し、社名もリョービとして、5〜6年で全国ネツト網を整備する迄に急成長します。
そして昭和53年4月(1978年)にはTV番組「プロ野球ニュース」を提供するようになります。
その後の発展の軌跡の前に「菱備」が何故国内販売に進出するに至ったかを辿ります


釣具メーカー倒産の軌跡(27)

昭和45年(1970年)菱備が釣具業界に進出するまで、釣具に無縁であったかと云うとそうではありません。
それどころか菱備は年間数十万個のリールを輸出しているのです。国内に流通していないので、菱備というメーカーは釣具界や釣人には
知られていないだけでした。ところでその輸出していたリールと納品先(発注元)ですが、リールはクローズド・フェースリール。
納品先はアメリカのZEBCOです。ZEBCOははアメリカの大きなレジャー産業の釣具部門(ブランド)と聞いています。
ボーリング盛んな頃、レーンの施設はブランズウィツクが占めていたことをご記憶の方もおられると思いますが(現在も)この会社もこのグループと聞いています
この他ベンホーガンのゴルフクラブや有名なレジャーボートを製造している会社も傘下にあるとも聞いています。
当時のアメリカのバスプロの通販カタログには、ZEBCOのリールが大大的に宣伝されており、勿論、製造元(輸入先)の「菱備」の社名
など表記されていませんが、このレール群は菱備製のものに違いありませんでした。



 釣具メーカー倒産の軌跡(28)

菱備とZEBCOがどのような経緯で結び付いたのか、はっきりした事は分かりませんが、ダイキャスト部門で著名であった菱備に
ZEBCOがアプローチしたのかも知れません。この両社の関係が何年位続いたのか、年間の最多輸出量はどの位あったのか、
これは全くの推測ですが、2〜3年より長く、輸出量即ち製造数は20万〜30万個位あったのではないかと思っています。
この両社の契約に破綻が生ずる発端は、菱備が自社ブランドにこだわり始めてからです。
(徹底的な理由は別なことであることが後日判明しますが…後述します)先ずリョービは(以降カタカナ表記にします)ヨーロッパ向けの
直貿を希望しますが、拒絶されます。


釣具メーカー倒産の軌跡(29)

この辺でリョービは方針を固めたようです。即ちZEBCOの拘束から離れ、本格的に釣具産業への参入です。
しかし、そのためには永年蓄積した経験はあるが、クローズド・フェースでは国内市場の販路には限界があり〔軌跡(21)日工産業参照
更にその頃オリ釣・ダイワもこの機種の製造販売をしていましたが、その実績をリョービは承知していたと思われます〕
そこでリールは矢張りスピニングリールを主力商品にすべきとして、国内市場へ先ず地域を限定して販売を開始します。
〔軌跡(26)〕当然ここでZEBCOとの契約は切られることになりますが、さすが大会社です。
方針の決まった後のリョービの躍進を詳述するまでもないことです。この後「オリ釣」「ダイワ」「シマノ」と共に4大メーカーの時代が続くことになるのですが…。


 釣具メーカー倒産の軌跡(30)

「オリ釣」「ダイワ」「リョービ」「シマノ」の四大メーカーの鼎立と申しましたが、先ず「オリ釣」が「マミヤ・オーピー」となった時点で、
永年の業界のリーダー的立場はやや後退したのではないでしょうか。また「シマノ」が台頭するのは、少し遅れてからですから、
実質的に総合メーカーは「ダイワ」と「リョービ」の二大メーカーの時代が何年間か続いたと思っています。
今、リョービの約40年間に亘る釣具業界における業績の数々を挙げても意味のないことですので省略しますが、ただ一つだけ上げれば
昭和57年2月(1982年)の東京釣具見本市20周年記念に、ボルネオロタ島で釣り上げた「シーラカンス」を展示したことです。
この一点だけでもリョービの実力が分かるのではないでしょうか


釣具メーカー倒産の軌跡(終)

我々は永い間「リョービ」という釣具メーカーとして認識していたわけですが、実はそれがリョービの「釣具部門」であったと思い知らされたわけです。
そこで思うのですが、釣具業界全体確かに現在は好況とは言い難いと思いますが、リョービが撤退する要因は、
「釣具部門」というより、むしろ他の「部門」の方が深刻だった。ということは無かったのでしょうか。この考えは釣人寄りの贔屓目でしょうか。
最後に今回の営業譲渡は、両社共満足すべき利益を得たのでしょうかとの疑問を投げかけつつ、リョービの軌跡を終えることにします。


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